歴史コラム · 19日 1月 2023
 すると百姓共は口々に願の趣を述べました。主な点は、 〇近年打ち続き凶作なので年貢の上納引きのばし 〇郡代、郡奉公の検見(現地調査)が良くないので役替えしてほしい。 〇その他、雑税免除等々の外、注目するのは、岩井田舎人(昨非)を百姓方へ引き渡せというものである。...
歴史コラム · 22日 12月 2022
 名主達は農民達を納得させることができず、代官郡役所へ注進するために、藩の会所(藩の事務所。「戒石銘」の向側の駐車場が跡地である。)にこの事態を報告しました。これによって藩では、郡奉公、代官と捕手、同心10人を小浜に派遣。名主宅に本陣を置き、探索がされ厳しい取り調べが行われました。一揆参加者は手に屶(ナタ)、鎌、蓑(ミノ)笠を着て、食料として香煎、栗、稗、粟、焼飯を背負っていたと言われています。藩の動きを知った一揆側は名主宅を取りまき、門を打ち破って乱入し捕らえられた人々を取りもどしました。藩の役人達は裏道を通って二本松に戻ってきました。12月18日一揆勢は大平村の島の内(大平小学校付近)に集結し、阿武隈川を渡って城下に迫る勢いでした。殿様(6代藩主高庸公)は、「鷹狩り」にことよせて近習ら30人をお供に川原に出馬。「百姓共の願いの筋は逐一に聞届け報告せよ」と言って御上使として2人を出向かせました。しかし、百姓達は上使とは思わず、取り囲んで鬨の声を上げ、悪口を浴びせる始末で、2人は止むなく引き返しました。藩では城下の堅めとして、家老丹羽図書、成田監物を始め、物頭2人に同心380人が陣笠をかぶり、弓、鉄砲で、大目付は町方より郷同心を呼び、陣羽織・陣装束で、供中(ぐちゅう)川原に陣を取り、高張提灯100張、松明数千挺の備えをしたと言います。渋川組の強訴に対しては、上田蔵人・小川平助など800余の兵が弓・鉄砲・ヤリ・長刀を持って八軒茶屋伸兵衛宅に陣を取って川崎村口を堅めました。 12月18日、山木屋村の名主惣左衛門が公用を終えて城下からの帰りに、島の内に集まっていた百姓に対し、先日悪口を浴びせて追い返した2人は百姓達の願いを殿様へ取り次ぐための御上使として来たという事を告げると、一揆衆は、惣左衛門に頼んで、御上使に御目にかかり願上げたいと口々に言うので、惣左衛門は城下へ引き返し、19日に上使を伴って帰りました。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第235回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 18日 11月 2022
 『年代記』に寛延2年(1749年)の項に、「三春百姓騒動御物成半免に成」(三春の百姓が騒動を起こし、年貢が半分になった)との記載があり、続いてこの年は大不作で、近くの国々の百姓が残らず騒動を起こしたとあります。この年の前半の記載に、5月の日照りにて殿様が「雨乞い」を行ったとあります。二本松領も12月17日は東安達3万石大平村に相詰とあり、二本松領の農民一揆の始まりの記載があります。県内では寛延2年から2年にかけて農民一揆が多発しました。寛延2年9月に桑折代官領の伊達郡・信夫郡68か村の1万数千人が参加し、12月に代官所を襲いました。2年11月から3年1月にかけては塙代官領の東白川郡11か村で、2年12月12日から17日にかけては三春藩で「領内の惣百姓共不残(ノコラズ)願之筋、御城下へ相詰メ」と言う事になり、2年12月13日には石川郡内の越後高田藩の分領で。2年12月21日から27日にかけては会津藩領耶麻郡、大沼郡、北会津郡の3万人が、2年12月27日にかけては守山藩領7か村(郡山市)で騒動が起きています。二本松領でも寛延2年の12月14日西新殿村の西泉寺に集まり、「来年6月までの御用米延納の願書」を3通したためました。村役人が取次がなかった場合は直接二本松へ起訴しようと企てました。東新殿では福田寺に集まって延穀願書(年貢の先のばし)連判帳を作りました。また2人の人物を茂原村へ送り、同調をうながし、問合せました。12月17日午の刻(昼12時頃)田沢、茂原村の農民が百目木村に押寄せ「閧の声」を上げました。これに百目木村の農民も同調しました。(以上の村々は旧岩代町地区)さらに山木屋村(川俣町)針道村、南戸沢村、北戸沢村、西新殿村、西木幡村、上太田村、杉沢村の農民も加わり、3700人余りが小浜に集まりました。町内ではなく、付近の山などに居たと言います。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第234回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 18日 10月 2022
 この事件についての記録は、二本松では見当たりませんが、『年代記』には寛保2年の項に「二本松左京様信夫御預五万石御取上二成申候」の記載があります。  ※高寛公は、丹羽長秀公の6男長次の子孫で、旗本5000石江戸北町奉公などを務めた家柄で、長道の子。江戸生まれ江戸育ちでした。二本松では名君を言われていますが、このような事件を起こしていました。...
歴史コラム · 16日 9月 2022
 その事件について、会津藩の『家世実記』(かせいじっき)には、寛保元年(1741年)7月10日(近くの領地)二本松で事件があったというので、その内容を江戸へ申し上げました。「二本松で事件があた」というので、その様子を探るため、夜廻り(役職)赤羽伊太夫・貝結儀左衛門を間者(スパイ)として派遣したところ、帰って来て、このような報告がありました。二本松城主丹羽左京太夫様(高寛公は、元来御養子で今年23才、嫡男(後継)百助様(後の高庸公)は13才、その外次男、娘もあるとの事です。そういったところ、このたび参勤交代で二本松に帰る際に、江戸から踊子4人をつれて来られたため、6月23日、御家老成田弥左衛門・大谷彦十郎・丹羽図書・和田弥市左衛門・丹羽勘左衛門が相談し、踊り子らを町宿に置いて城内に入れる事を止めました。これについて、成田弥左衛門が御承知下さるよう高寛公に申し上げましたが、高寛公は腹を立てて、「切腹せよ」と言い出しました。同24日、殿の前に出て、側に詰め寄っていろいろと申し上げたところ、高寛公は腹を立て、脇差で三太刀切り付けました。周辺の者が取り押さえ、高寛公の刀を取り上げ、無刀で別な部屋へ移して詰合の藩士が厳しく番をしました。弥左衛門は笰(カゴか?)にて退出。家族の者へ訳を話す間もなく死去しました。当日城にいた藩士は城から帰宅しませんでした。高寛公の御供で国元へ帰っていた御側役の水野良右衛門は早打(馬か?)で江戸へ、その後、早飛脚が江戸との間を激しく上下していました。弥左衛門の外にも手負の者があったかは不明としています。  25日には江戸からつれてきた踊子達も江戸へ帰りの途に着きました。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第232回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 12日 8月 2022
 二本松には川俣領民165人が夫食願いで二本松の本町まで逃げてきました。その他、福島領などにも逃げ出した農民がいたようです。二本松藩では、夫食米は貸し渡すから村へ帰るように説得しましたが、農民らは、この事を幕府に申し立ててほしいと訴え、帰りませんでした。藩では城下を警備し、早飛脚で江戸の岡田家と幕閣へ報告しました。農民たちを本町の称念寺に収容するとともに、藩では、老中からの警固命令で、吉倉口、針道口、飯野口、内木幡口の4ヶ所に足軽組を率いた藩士を配置しました。  4月4日岡田代官が江戸から二本松に到着すると、足軽組6組、目付、捕手らと医師4名を添えて、648名の藩兵が大森陣屋まで警護し、そのまま岡田代官が百姓共を吟味する間継続しました。死罪を含む多数の処分が行われ、享保15年(1730年)正月に結着を見ました。  この年の6月、藩は信夫・伊達2郡のうち、5万石を預領とするように幕府から命を受け、代官を任命し、支配しました。これは寛保2年(1742年)まで13年ほど続きました。この打切りには、どうもある事件が関係していたと思われます。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第231回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 18日 7月 2022
 寛永20年(1623年)7月、丹羽光重公は白河から二本松への移封を命じられました。石高は白河と同じ10万700石のままです。この石高は表高と言い、格式みたいなものです。二本松領は実収入で11万石700石余りで、これを草高と言います。これが「本途物成」(ほんとものなり)と呼ばれる「本年貢」で、外に「小物成、浮役、高掛物等」の雑税がありました。その外に二本松藩には幕府預領が田村郡守山とその周辺26ヶ村1万5360石余りで、後に守山藩となる地域です。預領は「本年貢」が幕府に納めますが、「小物成」などの雑税は二本松藩の収入となります。二本松藩は、守山に陣屋を置き、代官を派遣して支配しました。これは延守6年(1729年)まで55年間続きました。  享保14年(1729年)2月、信夫伊達両郡内の幕府領8万石の領内で一揆が起きました。前年の長雨と秋の暴風雨による大洪水で大被害が出ました。(二本松領内も同じで、1万8千石の被害と言われています。)各藩(二本松、福島等)では年貢の減免等を行いましたが、伊達郡川俣陣屋付の33ヶ村は、信夫郡大森陣屋付35ヶ村合計8万石を支配していた幕府代官岡田庄夫は、手代(部下)らに厳しく年貢の督促に当たらせ、享保8年に豊作年5ヶ年を基本として定めた年貢率に5%増で年貢を課したため、農民らは名主・組頭を代表に立て、定免(定められた年貢率)ではなく、検見取(現地調査に基づく年貢)に変えるように願い出ました。しかし拒否され、食用米や種籾まで年貢として上納させられ餓死寸前に追い込まれました。さらに村高100石につき10石の凶作に備えた備蓄を命じられ、翌14年2月にはその半分を上納するように命じられました。夫食(ふじき)(食用米)拝借と年貢減免の願いを代官所に強訴しましたが、聞き入れられないため、農民たちは、福島藩と二本松藩に願を出すという本来考えられない行動に出ました。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第230回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 17日 6月 2022
 この二家はいずれも、寛永4年2月(1627年)に加藤嘉明公(賤ヶ岳の七本槍の一人)が、四国松山から会津若松に40万石で移された時、嘉明公の娘婿松下茂綱公は下野国(栃木県)烏山2万8千石から二本松に安達郡5万石で移封され、嘉明公の三男明利公は三春3万石を領しました。ところが、この年の10月に松下重綱公が病没し、子の長綱公が家を継ぎました。しかし幕府は、長綱が幼いことを理由に、翌年2万石を減じ3万石で三春に移しました。その後長綱公も没し正保元年(1644年)松下家は廃絶になりました。減じられた2万石については、幕府領になったのか、会津の加藤家領になったのか、分かっていません。代わって二本松には明利公を三春より二本松3万石で移しました。明利公は今の石垣の二本松城を築きました。そうすると二本松には丹羽氏時代の3割の家臣が住んでいたことになりますので、当然城下図が作られたと思います。  加藤明利公は寛永18年(1641年)3月に死去し、その子明勝公が継ぎましたが、幕府は生前の明利公の「行所よろしからず」として二本松3万石を没収し、3千石の旗本にしてしまいました。  会津では、加藤家本家の加藤明成公が領土返上に到り、子の明友公は近江水口2万石の大名になりました。 ※ 「賤ヶ岳の七本槍」とは羽柴秀吉と柴田勝家が「賤ヶ岳」で戦った時に功績のあった7人の家来を指しています。加藤清正、福島正則等で、加藤嘉明も含まれています。 ※ 故水田荘介氏は二本松在住の画家で、長く教職に就かれ、私も大学時代「美学」の講座を受けました。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第229回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 17日 5月 2022
 「二本松城下図」は、もう1枚存在します。これは、旧二本松町役場にあり、大正15年(1926年)に水田荘介氏が模写したものです。これら2枚の図は、昭和55年8月10日に「二本松史談会」によって複製品が市販されました。双方共に似た内容が記されていますが、後者の方には、坂下門が完成する前の姿で書かれています。ただ、どちらにも「竜泉寺」の脇に「御城代組足軽」の記載があり、城代家老に属する30名ほどの足軽の長屋があったようです。現在「千枚田」と言われている場所に当たります。したがって城の範囲は、現在言われているより、もう少し広かったようです。  各々の原本が書かれた年代について、「史談会」では、「平島版」を文久時代(1736年~1740年)、「町役場版」を元禄一定永時代(1699年~1708年)としています。  この2枚の原図は、丹羽家二本松藩に任えた武士の家に伝えられた「住宅地図」で、移動があった場合は名前の上に貼り紙で新しい名前を記入するものです。「表札」が用いられていなかった江戸期の武家では必需品でした。二本松では、戊辰戦争で大多数の武家住宅が焼失したため、現存するものは少ないようです。  私が「郡山市教育委員会」に勤務中に、会津若松の図を持ち込まれたことがありました。若松からの移住者の子孫が持っていたもので、郡山市では活用方法が無いので「県立博物館」を紹介したおぼえがあります。二本松に必要なのは、「松下家二本松藩」と「加藤家二本松藩」の時代の「城下図」で、二本松では未発見です。 (原稿提供 相原秀郎氏) 第228回門前市広告より原文のまま掲載
歴史コラム · 20日 4月 2022
今回より新シリーズがスタートします...

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